第9話 ハインリヒ登場

  ライン


急にミシェルが、オレの腕を軽く引っ張った。 「どうした?」 「ほら、前を見て。ハインリヒよ」 "げっ"という言葉は飲み込んで、オレはゆっくりと視線を上げた。 オレの目の前には、ハインリヒと思しき男の姿が1人。ゆっくり、堂々とした歩き方でこっちに向 かってくる。 オレはハインリヒをじっと見つめた。相手の視線を反らすことは、サルの世界では負けを意味する らしい。これはジュリーの受け売りだが、人間だって多分、同じようなものだろう。 『視線は外さないように…視線は外さないように』 心の中で、呪文のように呟く。 オレは奴が近づいてくるのを十分待ってから、声をかけた。ここはハインリヒの家。サッカーで言う なればアウェーなのだ。相手のペースに引き込まれる前に、少しでも時間稼ぎをしておこう。 「はじめまして。ランディー・ロッドマンです。こんな素敵なパーティーに招待してくださって有難う ございます」 「いやいや、この程度のパーティーは毎日やっているもので…たいしたことはありませんよ」 そう言って、ハインリヒはにっこり笑った。しょっぱなから自慢ときたか…。 こりゃ、前途多難かもしれない。 「僕の名前はハインリヒ・ドゥ・ラ・フルト。よろしく」 甘いマスクが再び微笑んだ。ミシェルから聞いたとおり、彼は絵に描いたような"王子様"と言った外見だ。 アルマーニのスーツを颯爽と着こなし、ややウエーブのかかった前髪をかきあげる仕草が何とも様に なっている。しかも、その髪は完璧にセットされていて、かき上げても元の位置に戻ってくるのだから 不思議だ。 外見だけで判断するなら、警察官というより、雑誌のモデルのような感じである。ダンスホールが余りに 似合い過ぎているせいか、勤務中の彼の様子など、微塵も想像できない。 アレコレと想像してみるのも楽しそうだったが、とりあえず、差し出された彼の手をとる。 「こちらこそ。どうぞよろしくお願いします」 「まあ、今日は内輪のパーティーですから、堅苦しいのは抜きにして楽しみましょう。それにしても、 随分と遠くから来てくれたみたいだけど…今日はどうやって来たんだい?」 彼は少しフランクな口調に変えてきた。 「車です」 「君、歳はいくつ?」 「25です」 どうして、急にこんなに話が飛ぶんだろう? 警察官の会話って、こんなもんなのだろうか…?  疑問を抱きつつ、ミシェルに言われたとおり、答えることにする。言っておくが、歳をサバ読むことに したのは、完全にミシェルの案である。彼女が「サバを読んだ方が自然」と言ってきたのだ。 ウソをつくほうが自然という判断には賛同できないが、そもそもオレはダミーなのだ。 存在自体がウソなのだから、歳など関係ないのかもしれない。 「そう。25なのに免許はとってないみたいだね。───いやぁ、君達が来る時、たまたまバルコニー から見えたんだけど」 「そうなんです。仕事上、車を使う必要もないものですから」 オレはハインリヒを見習って、にっこり微笑み返した。つまりは、ハインリヒはオレ達が来るところ から知っていたという訳だ。なんて回りくどい話し方をするんだ…。 「あぁ、確かにトリュフハンターには、車は要らないかもしれないね。でも、遠くに行くのは不便じゃ ないのかい?」 「あまり村から出ませんから、特に不便ということもないです。もしも外出するような時は、今回みたい に乗せてもらえば済むことなので…」 「デートをするには、不便そうだけどなぁ」 ハインリヒは唐突に切り込んできた。さっきも感じたことだが、どうしてこんなに展開が早いのだろう?  オレを撹乱させようとでもしてるんだろうか? 「彼女は大変なんじゃないの?随分遠いだろう?」 「そうですね。ミシェルには悪いと思ってます」 これは本心である。もちろん、オレはダミーなのでデートをした訳ではないのだが、常日頃、仕事の 度に迎えに来てもらっていることを考えると、迷惑をかけているのはわかる。 この間の健康診断の時には、ダイアンも巻き込んでヘリまで出してもらっているのだ。 これを迷惑と言わずして何と言おう? 「いつから付き合ってるんだい?」 「一年ぐらい前からですね」 オレは堂々と答えることにした。知り合って一年になるのは事実だからだ。 「どこで出会ったんだい?」 「あるテレビ番組で、一緒に出演したんです。そこで会ったのが最初ですね」 「そうか」 彼はにっこり笑うと、傍についていた執事に向かって、ワインをバルコニーに運ぶよう指示を出した。 「もっと色々話がしたい。バルコニーにでも出ないか?」 「…じゃあ、そうしましょう」 オレは少し遅れて返事を返した。 ───先に執事に3人分のワインを頼んでおいて、オレを誘うのだから、断れる訳もない。 完全に先手を打たれてしまった。 これから更に展開するトークバトルを想像してうんざりしながらも、オレはハインリヒの後に続いたの だった。




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