第6話 ベルサイユ宮殿前

  ライン


「何でハインリヒがいるんだ…」 「彼は今回の事件の総指揮を任されていますから、居てもおかしくないと思いますけど…」 窓ガラスに向かって呟いた言葉を拾って、ダイアンが申し訳なさそうに答える。 総指揮といえば、間違いようもなく今回の捜査官のトップである。 オレのような"単なる臨時捜査要員"が、いわゆる"トップ"とどれほど接点があるかは定かでないが、 できるものなら関わらずに捜査を終えたいものだ。…平和的に。 ふと窓の外の光景に目をやると、ちょうどベルサイユ宮殿を通り過ぎようとしているところだった。 この周りには歴史的建造物が多いので、道中にも立派な城をいくつか目にしたが、やはりベルサイユ 宮殿はひときわ豪華で迫力がある。 「すごいな〜。やっぱ、有名なだけあるな〜」 「ブルボン王朝の優雅さの象徴のような宮殿ですからね」 「…ブルボン?」 オレが知っているブルボンは、有名なお菓子会社の名前だけである。自分で自分の無知さに愕然と するが、今更取り繕えるものでもない。 「オレ、本当に何にも知らなくてさ。ベルサイユ宮殿について何か…その、教えてくれないかな」 「私の知識も大したものではありませんけど…」 ダイアンは控えめに承諾すると、ポツポツと説明してくれた。 「ベルサイユ宮殿というのは、ルイ14世が建てた宮殿で…建築家ル・ヴォー、室内装飾家ル・ブラン、 造園家ル・ノートルら当時の一流の芸術家・技師達によって設計されたと言われています。ヘラク レスの間の室内装飾や、フランス式庭園が有名で、17世紀フランス文化の頂点とも言われているん ですが…ごめんなさい、これくらいしか知りません」 ダイアンは申し訳なさそうに、少しうつむいた。これだけ知っているのに、何でそんな表情をする必要 があるんだろう? オレと彼女の間には"知っている"という概念について大きな隔たりがあるようだ。 「オレとしては、十分すぎるくらいなんだけど…」 正直な気持ちを口にすると、ダイアンはホッとした表情を浮かべた。 「それなら良かったです。…もうすぐ現場に着くと思います」 ダイアンに言われるまでもなく、現場はすぐに見つかった。 一軒の大屋敷の前に、パトカーが列を作っていたからだ。 車は程なく停止し、オレとダイアンは外へ出た。 ギョーム・ベルトゥール伯爵邸の敷地内は、現代とは切り離された別世界のような雰囲気を漂わせて いた。敷地を取り囲むように壕があり、手入れの行き届いた庭園の向こうに古い城がそびえ立っている。 ハインリヒの現代的な豪邸とは違い、歴史のある古い城といった感じだ。観光客などに開放している 雰囲気はないので、おそらくプライベートシャトーなのだろう。ダイアンに聞けば、もっと詳しいこと がわかるかもしれない。 『ランディー!さっさとこっちに来なさいよ!』 声の聞こえた方を向くと、壕に架かった跳ね橋を渡り切った所に相棒がいた。どうやらオレを待って いてくれたらしい。 「待たせて悪かったな」 『あんたがゆっくり城の観光なんかしてるからよ』 そういうとジュリーは猛スピードで走り出した。辛抱の限界だったのだろう。 オレはダイアンに軽く合図をしてから、ジュリーの後を追う。 城の内部に入り中庭を抜けると、主塔の階段の前に老人が一人立っていた。その周りを、複数の警官 が取り囲んでいる。老人と話をしているのはハインリヒだ。 「ギョーム・ベルトゥール伯爵はどこにおられますか?」 「旦那様は今し方、主治医と共に病院へ向かわれたところで御座います」 老人は髭を震わせながら、弱々しい口調で答えた。おそらく執事だろう。 「失礼ですが、どこを負傷されたのですか?」 「…お顔に随分と酷い御怪我をされまして…。この城にいる医者にすぐ診せましたところ、この場 では対処は困難だということになり、病院に行かれた次第です」 "顔"というキーワードに、警察官達の間の空気がピリッと張り詰める。 「命に別状は?」 「私がお見送りをした際には、なんとか会話はできる状態でしたので…。命に別状はないと信じて おりますが…」 「ご無事であることを、私共も祈っております」 ハインリヒは紳士らしく、柔らかい口調で老人の肩に手を置いた。 「それでは、事故が起こった現場に案内して頂けますか?」




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