「キッカケとケイゾク」

  ライン


「あ〜あ、全然進まないわ」 運転席のミシェルがハンドルに腕をあずけ、顔をこちらに向ける。                  パリ市内の渋滞は深刻で、一度捕まると中々抜け出せない。 外の景色は変わり映えせず退屈なので、自然と会話が進む。                                       「隣のポルシェ、やたらと前の車煽ってるな」                    「そんなことしたって、渋滞は変わらないと思うけどね…」                    「ああいうの、道路交通法とかで取り締まれないのか?」                    「今ぐらいの煽りなら、放っておいた方がいいわよ。それに私、交通課じゃないし」 ミシェルはチラッと横目でポルシェを見ながらあっさりと言い切った。 「おっ、警察官がそんなこと言っていいのかよ?」 「部署が違うのは事実だもの。もちろん、危険だと思ったら出て行くつもりよ」 「ふうん、そんなもんなのか…」                   警察官は正義感が強い人間が集まっているのだろうと勝手に考えていたので、少々意外だった。                   特に仕事熱心なミシェルの口から、こういう言葉が出てくるとは…。                   「私はもっと真面目な人間だと思ってた?」 「えっ…あ…ま…まあね」 「そんなに取り乱さなくてもいいじゃない」 ズバリ言い当てられてしどろもどろになっているオレを見て、ミシェルは声を立てて笑った。                   「警察官として、誇りを持って仕事をしてはいるのよ。でも、私はスーパーマンじゃないから、                    全ての事件を解決できるわけじゃないわ。もし24時間、悪人を捕まえることだけに必死に                    なっていたら、すぐに体を壊して働けなくなっちゃうでしょ?」 「…警察官の前に、ひとりの人間なんだもんなぁ…」 「そう。人並みに趣味や気分転換が必要なのよ。…でも、理想としてはスーパーマンになるべき                    なのかもしれないわね。実際にそれに近い頑張りをしてる人だっているんだし」 「…んー…」                   「どうしたの?」 「難しいなぁって思ってさ。その…理想と現実のギャップとか、理想そのものを考える事とか。                    …オレは今まで、理想なんて考えたこともなかった」 「まだ17歳なんだから、焦ることないわ」 ミシェルはフォローしてくれたが、オレの貧弱な思考回路の中に“理想”なんて言葉が浮かぶ日                   が来るのだろうか?                    オレはこれまで流されるままに生きてきて、気が付けばフランスにいた。フランスに来たのに                   したって、単に友達がチケットをくれたからで、夢や理想を抱いて来たわけではない。 ジュリー曰く、オレは「枯れた男」である。 「ミシェルは何で警察官になろうと思ったんだ?」 「どうしたの? 急に」 枯れた男にも、多少の興味はあるのだ。 「私、さっき警察官の仕事に誇りを持ってるって言ったけど、はじめはそうでもなかったのよ。                    他の仕事に比べて、ちょっとだけ興味があるって程度で…。空手が強かったから、学校の先生                    に勧められたの。それがきっかけ」 「身近に立派な警察官がいた、とか?」 「警察官自体が、そんなに身近な職業じゃなかったの。一族にも誰もいないし、私の周りは平和で、                    物騒な事件なんてなかったから。それに私自身、泥棒に遭ったこともなければ、痴漢もストーカー                    も見たことすら無かったのよ。…もし出会ったら一発でKOしてたとは思うけど」 ミシェルはさりげなく右手で拳を作った。この気合がある限り、痴漢レーダーに引っかかることは                  ないだろう。 「警察官になって色々な事件を担当しているうちに、やっと気がついたの」 ミシェルはステアリングをコツコツを人差し指で叩きながら、息を吐いた。 「自分は何にも知らなかったんだなぁ…って」                   「…?…何が…?」               ミシェルは視線を前方に移し、前の車のテールランプをじっと見つめている。 「ある日、友達が顔に大きなアザを作ってきたの。その子は“派手にコケた”って言ってたわ。 当時の私は素直にその言葉を信じてたけど、今なら判るのよ。“ああ、あの子は殴られてたんだな”                    って。着替えの時に見た、背中の不思議な丸いアザも、“タバコを押し付けた跡”なんだって。   …笑っちゃうでしょ? 警察官になってようやく、自分の周りに犯罪があったことに気付くなんて」 「…ずっと知らない奴だっているんだろ?」 オレの言葉にミシェルは首を横に振った。 「その時に気付かなければ、何の意味もないのよ。そしてその時行動しなければ、ずっと知らない人                    と同じなのよ」 「…」 隣のポルシェは相変わらず、前の車を煽っている。ミシェルは自分のバッグに手を伸ばすと、バッジ                  を取り出した。これで帰宅時間が少し遅くなるかもしれない。 「別に仲のいい友達ってわけじゃなかったわ。でも、そんなのどうだっていいことでしょ?                     …私は犯罪に対して、無知で無力な存在にだけはなりたくないと思ってるの」 ミシェルはポルシェと併走しながら、パワーウインドーのボタンを操作し、窓を開けた。 「…これが警察官を続けている理由かしら」 にっこり笑った彼女は、制服こそ着ていないが、確かに警官バッジの似合う警察官なのだと、   改めて気付かされたのだった…。                   




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